今日は高橋悠治さんと《冬の旅》のリハーサルだった。
いつものように、24曲を一気に通す。本番と同じ時間の流れだ。
高橋悠治さんと《冬の旅》を演奏させてもらうようになって4年近くになる。2年目あたりから、四苦八苦してもがいていた最初の頃とは全く別の感覚が生まれてきた。とにかく、1曲1曲が楽しくてしょうがない。「終わらないで〜!」と思いながら演奏している。体調不良で辛い時ですらそうなのだ。本番では第24曲が終わった途端に、もう一度、初めから歌いたくなる。今日のリハーサルでもそうだった。
通しを終えてから、
「こんなに歌うのが楽しいということは、シューベルト自身書くのが楽しくてたまらなかったんじゃないかな?」
と悠治さんに問うと、すっきりした声で、
「そりゃそうだよ」
とのお答え。
なぜ「そりゃそうだ」なのかは、作曲家でないとわからないのかもしれない。
《冬の旅》というと一般的に「失恋した青年が絶望してさすらう」というイメージとセットだ。だが、演奏している時、そんなイメージは浮かんでこない。恋に破れた相手のその「顔」が、曲集の中に感じられない。恋人との破局は放浪の単なるきっかけに過ぎず、彼の絶望のわけは全24曲の最初の単語にこめられていると思う。
Fremd_ よそものとして
この単語をどうとらえる?と、友人のテナー、ルーファス・ミュラーにたずねてみた。彼の即答。
not belong_ 属していない
この感覚を、一生のうち一度も味わうことのない人は少ないだろう。たとえ数時間、数日といった短い期間でも、たとえ幼い園児であっても、「ここに居場所はない」と感じるときの心身の寒さ。
声楽家だけでなく、器楽奏者たちも惹きつけるこの曲集の魅力は、この一言からスタートする「旅」をシューベルトが後ろ向きに書かなかったことにもあるのでは。
事実、この曲集には力があふれていているのです。だから歌っていて楽しい。
高橋悠治さんがCDの帯のために書いてくれた一行。いつもこの言葉と一緒に旅が始まります。
_ 歩き出せ 世界の外へ _