音響設計のパイオニア、永田穂氏のお別れの会で歌いました。献奏を担当したオルガニスト、今井奈緒子さんから頼まれ、永田氏がお好きだったというシューベルトの歌曲「鳩の使い」などを演奏しました。
9月26日午後、サントリーホールのブルーローズで行われた会はあたたかく、素晴らしいものでした。特に心に残ったことを書いてみます。
直接お会いすることのなかった方が自分でも驚くほど身近に思えたのは、ご家族のスピーチを聞いていたときでした。永田氏は、<感じる>ということを何より大切にしていらしたそうです。
『全く料理をすることのなかった父でしたが、よくレシピの切り抜きを集めていました。おそらく、《音の響き》という捉えどころのない、そして料理やワインなどのように特性を表現することが一般化されていない現象についての、語彙のヒントを探していたのではないでしょうか』
お別れの会の前夜に私は、氏がどんなホールの音響を設計されたのか、永田音響設計のHPを拝見しました。日本中の、海外の、数えきれないほどのホールが氏によるもので、そこにはデータとして<残響0.00秒>と、各ホールの響きが数値で記されていました。通常、ホールの音響をイメージする上で重要なものです。しかし、そこに並んだ数字と、そのホールで演奏したときの感覚とは必ずしも一致しませんでした。つまり、単純に残響が長い=より響いていると感じる、ではなかったのです。
なぜなのでしょうか?その微妙な違い、ホールの「性格」ともいえるものを、レシピの中から探ろうとしていらしたのか?驚きながら、娘さんのスピーチを聞いていました。
私は歌う機会の多くがソロコンサートです。共演楽器は大抵一つだけ。そして静かな音楽が好きです。空間の中でどのように音が生まれ、消えるのか、響きの質感に対して敏感にならざるを得ません。加えて私の中では、音・色・味に関する感じ方の境界が曖昧で、各地のホールで歌うたびそれらの音の響きを色や味で記憶してきました。
浜離宮朝日ホール=明るい蜂蜜の色、ふくよか、甘酸っぱい
王子ホール=香ばしいナッツ、深い緑
兵庫芸術文化小ホール=澄んだ紺、海に陽の光が射している、爽やか
これらは全く個人的な感覚ですし、共演楽器によって変化もあります。永田氏が料理のレシピから得ようとしていたこととは、全く筋の違うことかもしれません。ただ、《ホール》という大きな空間を創造していた永田氏が、人間の体の小さな空間《口》で起こる感覚に興味を抱いていたことに、強く心を動かされました。
演奏家にとっての最大の褒美は、ホールに満ちる「静寂」です。音楽が去るとき、そこにいる人々と味わう静けさ。あるいは、曲のさなかに現れる沈黙。その豊かな静寂のために、音楽が存在するとさえ思えます。「空間の響き」とは、音楽を静寂へとつなぐ透明な通路かもしれません。