フランスの窓

 “フランス窓”といえば、ミステリー作品においては、「犯人はあのフランス窓から出入りした」などという存在。私にとっての「フランスの窓」は、宮崎で学生生活を送っていた1984年に出会ったドビュッシーの歌曲だ。
 きっかけは、大学の練習室で一年下の後輩がさらっていた音。当時の宮崎大学の音楽棟は新校舎への移転前で、古色蒼然とした木造の建物だった。もちろん練習室に防音設備などはなく、さらっている音は周囲に筒抜け。色んな曲の中から、聞いたことのない響きが聞こえてきた。音の主に「それ、何?」と聞くと、“ドビュッシーの歌曲” だという。何かにうたれたような感覚をおぼえて、「私もレッスンに行かなきゃ」と決め、先生を紹介してもらった。
 ロンドンから帰国したばかりのテナーの先生のところに通うようになったのはそれからすぐのこと。ブリテンのパートナーだった名テナー、ピーター・ピアーズに教えを受けた高田重孝先生。そこでイギリス、フランス、ドイツの歌曲とバッハを習った。最初のレッスンで、毎週新曲4曲、暗譜3曲の計7曲を持ってくるように言われ、イギリス留学までの2年余の間、たくさんのレパートリーに触れた。
 イギリス歌曲やドイツ歌曲にもどっぷり浸ったが、まずはフランスの音楽に魅了された。ドビュッシー、フォーレ、デュパルク、ショーソン、ラヴェル、サティ、プーランク、そして、リリ・ブーランジェ。
 それらの作曲家の何に惹かれたのか?ひとつには “響き”、そして “詩” かもしれない。いや、詩というより、“タイトル” だったのかも。
  恋人たちの死
  出現
  あやつり人形
など、ドビュッシーの楽譜には知らない世界をのぞくような日本語が並んでいた。これらのタイトルは全音版、巻末には全詩の和訳が掲載されていた。しかしデュパルクやプーランクほか、大抵は海外版の楽譜で、訳は先生のお持ちだったレコードと図書館所蔵の詩集が頼りだった。
 YouTubeのない時代、音源も、触れられるのはそれらレコードだけ。ステレオからカセットに録音し(昭和!)、文字通りテープが伸びるまで聴いた。中でも、スゼーとアメリングによる「フォーレ全集」は毎朝、学校に行く前に聴いていた。音楽的にはプーランクとブーランジェが好きだったが、フォーレのこの全集は雰囲気がなんとも親密だったのだ。あの頃は、好ましい理由は歌手とピアニストの素晴らしさだと思っていたが、それ以外にも、録音状態の安定度と、何より歌手が2人だけだったことで、各曲のキャラクターがよりクリアに感じられたのだと今はわかる。ドビュッシー、ラヴェルの全集では綺羅星のごとき豪華な歌手陣だったが、「アルバム」としての佇まいは希薄だったから。
 アメリングが録音していた数々のオムニバス・アルバムもよく聴いた。ダウランド、パーセルからストラヴィンスキー、中田喜直まで縦横に組まれたプログラムが何枚もリリースされており、さまざまな窓を開いてくれた。ヴァラエティに富む作曲家群を1枚の中で味わうことで、各音楽の個性がはっきりと味わえたということも、今になって気づいていることだ。